さいたま市北区盆栽町に「漫画会館」という施設がある。ここは、日本近代風刺漫画の祖である北沢楽天(きたざわらくてん)の晩年の邸宅跡地に、漫画を文化として育てていくことを目的として1966年に誕生した、日本初の漫画に関する美術館。北沢楽天関連の常設展示や、期間限定の企画展示、コミックスや漫画研究書など約5,000冊を収蔵する漫画資料室、美しい庭園などを楽しむことができるこの施設には、実にさまざまな人が足を運ぶ。
ではいったい、北沢楽天とはどんな人物だったのか?彼が残した偉業とは?そこには、漫画のルーツがあった。
近代日本漫画の父、北沢楽天とは
北沢楽天は、1876年、大宮宿の旧家・北沢家の四男として生まれた。小さい頃から絵を描くことが好きだった楽天は、19歳で外国人向けの英字新聞を発行するボックス・オブ・キュリオス社に入社し、オーストラリア人の漫画家フランク・A・ナンキベルから西洋漫画を学び、漫画を描くようになる。
その後、23歳で時事新報社に入社した楽天は、新聞記事を分かりやすく伝えるため、絵画部員として新聞にひとコマ漫画を描いた。とくに漫画をメインにとりあげた時事漫画コーナーは大人気で、当時「ポンチ絵」や「おどけ絵」と呼ばれ低俗とみなされていた風刺画を、きちんとした絵と内容で大人から子どもまで楽しめる「漫画」へと発展させたのだった。
29歳になると、日本初のカラー漫画雑誌『東京パック』を創刊し、漫画の執筆と編集を務める。雑誌のタイトルはフランク・A・ナンキベルも描いていたNY生まれの漫画雑誌『パック』から取り、政治、社会問題、文化など、さまざまな話題を取りあげて面白おかしく漫画にした。すると瞬く間に大反響を呼び、大勢の人々が楽天の漫画を楽しむこととなった。
1905年創刊『東京パック』表紙
日露戦争を題材にした「一撃微塵」(東京パックより)
ロシア革命を題材にした「革命の長蛇」(東京パックより)
漫画会館に展示される『東京パック』の漫画
手塚治虫にも影響を与えたその偉業
今でこそ漫画は当たり前のように存在しているが、当時は違った。そんな中で楽天は、「漫画」という呼び方を普及させ、その価値を向上させながら、絵描きが食べていくのは困難な時代に、漫画を職業として成功させた。また、楽天の漫画には、おなじみの登場人物がたびたび登場した。今ではすっかり定着した「キャラクター」のはじまりといわれている。
楽天は大勢の弟子たちを育て、若い漫画家たちに多大な影響を与えた。かの漫画家、手塚治虫もそのひとりである。もし楽天がいなければ、漫画がこれほどまでに人々を魅了し喜ばれなかったかもしれず、その功績は計り知れない。
人物の表情がリアルに非常に生き生きと、そしてコミカルに描かれており、当時も今も人の本質は変わらないということを教えてくれる。
北沢楽天の生涯が2018年映画化
楽天が晩年住んでいた場所に建てられた漫画会館の開館50周年と、楽天の生誕140周年を記念して、漫画家楽天の半生を描いた映画『漫画誕生』の製作が決定。
主人公の楽天役を演じるのはイッセー尾形、監督は自主制作による映画『花火思想』が2014年に公開された大木萠、脚本は若木康輔が手掛ける。さいたま市での先行上映を経て、2018年に劇場公開される予定だ。
北沢楽天。近代日本漫画の基礎を築いた彼の人生を、ぜひあなたの目で確かめていただきたい。