ガイド会おすすめ
今回のさいたま歩きは城下町岩槻。地元を知りつくした岩槻観光ボランティアガイド会おすすめコースです。岩槻駅を出発し、城下町として栄えた岩槻の文化財や史跡などのスポットを巡ります。
岩槻城は室町時代の末に築城されました。
代々太田氏が城主となっていましたが、1567年(永禄10年)に太田氏資が戦死すると、小田原城の北条氏が支配するようになりました。
その後豊臣秀吉と対立。
岩槻城と城下町の周囲には大構と呼ばれる全長8kmにおよぶ土塁と堀が築かれました。
1590年(天正18年)、豊臣方の攻撃を受けた岩槻城は落城し、まもなく小田原城も落城し、北条氏は滅びました。
その後徳川家康が江戸に入り、以来徳川家の親藩・譜代が岩槻城主を務めるようになりました。
江戸時代になると、日光御成道が整備され、大手門外の一帯を中心に武家地、日光御成道沿いには町屋が配置され、城下町岩槻は宿場町としても栄えました。
また、岩槻は日本有数の人形の産地。
町を歩くと多くの人形店や工房が見られます。
2020年には人形をテーマとする日本初の公立博物館、岩槻人形博物館がオープンしました。
城下町として、宿場町として、そして人形のまちとしての岩槻の魅力が満喫できるコースです。
岩槻駅改札を出て、岩槻観光案内所に立ち寄ったあと、駅の東口に出ます。
小さなケースの中に縄文時代の真福寺貝塚から出土したミミズク土偶のレプリカがあります。
駅前ロータリーの中にはからくり時計。
時間になると人形のまち岩槻らしい演出が楽しめます。
駅をあとにして駅前通りを歩くと、人形店の看板がたくさん目に入って来ます。
太田氏ゆかりの寺である芳林寺では、境内の太田道灌の騎馬像がひときわ目を引きます。
岩槻観光案内所は、岩槻駅改札を出て右手にあります。
ここでは、観光案内のほか、観光パンフレットや地図の配布を行っています。
岩槻歩きの前に是非お立ち寄りください。
縄文時代後期から晩期の遺跡である真福寺貝塚から出土したミミズク土偶のレプリカ。
ミミズク土偶は、顔がミミズクに似ていることからこの名前がつけられました。
関東地方を中心に多く作られ、体の悪いところを治すまじないに使われたと考えられています。
この像の実物は東京国立博物館で所蔵され、国の重要文化財に指定されています。
真福寺貝塚は台地部の住居跡、貝塚と低地部の泥炭層遺跡によって構成されています。
住居跡と貝塚からは石斧などの石器類、シジミやハマグリなどの貝類、土器や土偶が出土し、泥炭層遺跡からは漆塗りの木製品や食用植物の種子が出土しています。
人形のまち岩槻らしい和人形を使った和風のからくり時計。
雅楽器の音色とともに、下側から3人の着物姿の人形が出てきて琴を演奏し、その上の中央部から1人の着物姿の人形が出てきて舞を披露します。
(からくり時計演出時刻)
平日 10時、12時、15時、18時、20時
土曜・日曜 10時〜15時の毎時、18時、20時
※雨天の場合は中止となります。
芳林寺は、曹洞宗のお寺で、太平山芳林寺といい、本尊に釈迦如来像が祀られています。
岩槻城は諸説がありますが、太田道真・道灌父子が築城したとも言われています。
その子孫の太田資正がかつて東松山にあった地蔵堂をこの地に移したと伝えられています。
その後資正の子で岩槻太田氏最後の城主である氏資が母の芳林尼の追慕のため、寺名を芳林寺としました。
境内には太田氏資と岩槻藩初代藩主高力清長の子、正長の宝篋印塔があります。
太田道灌の騎馬像と鷹狩り像、太田氏資座像、芳林妙春尼座像などもあります。
なかでも道灌の甲兜を着用した騎馬像はひときわ目立ちます。
道灌は江戸城を築城したと言われる岩槻ゆかりの名将。
その勇姿に思いを馳せてみましょう!
芳林寺は、1871年(明治4年)に埼玉県の県庁が一時岩槻に置かれた際、仮庁舎として使われました。
市宿通りに出てまず訪れるのは八雲神社。
室町時代に市が開設されたときの市神様を祀っています。
昔は六斎市が開かれにぎわいました。
かつて八雲神社は市宿通りの真ん中にあったそうです。
道路を隔てて向かい側には岩槻郷土資料館があります。
建物は昭和の初めに建てられた旧岩槻警察署です。
さらに市宿通り沿いを歩いて行くと屋根の上に魔除けとして置かれている鍾馗像をみつけることができます!
室町時代末期の1560年(永禄3年)に岩槻太田氏の家臣勝田佐渡守が市を開設した時の市神を祀った社です。
祭神は素戔嗚尊で商売、火防の神様。
江戸時代には牛頭天王社とよばれ、日光御成道の真ん中にありました。
明治時代になって八雲神社に改称し、現在の場所に移りました。
希望すると、本殿の壁面の彫刻を見せていただけます。
素戔嗚尊、八岐大蛇、櫛名田姫命の緻密で迫力のある彫刻が施されています。
四神の彫刻は八雲神社の守神として今に伝わります。
また、境内には天王様のお祭りに担がれていた立派な神輿があります。
岩槻城の城下町として発展し、後に日光御成道の宿場町として栄えました。
昔は六斎市が毎月1と6のつく日に月6回開かれ、にぎわいました。
現在も創業200年の商家や、昭和初期の建物の郷土資料館など歴史を感じさせる面影が残っています。
11月には「鷹狩り行列」が開催されます。
岩槻郷土資料館の建物は、1930年(昭和5年)に建てられた旧岩槻警察署です。
外観は装飾性のない簡素なものですが、アーチ状の造形や、アールデコ調の装飾が随所に施されています。
国の登録有形文化財。
岩槻の歴史や文化にまつわる資料が展示され、「岩槻のあゆみ」、「大昔のくらし」、「くらしの道具」の三つに分かれています。
岩槻城の模型は全方向から見ることができます。
岩槻では江戸時代から屋根の上に「瓦鍾馗」が祀られていました。今でも市宿通り沿いの屋根の上にみつけることができます。 鍾馗は邪鬼や悪魔を追い払う中国の神様です。瓦鍾馗には疫病や災害に遭わないようにという人々に願いが込められています。
駅前通りを渡ると久保宿通りです。
左側に見えてきたのは大正館。
大正時代に建てられたレンガ造りの2階建ての洋館です。
久保宿通りを少し戻り、左に曲がって横町通りに入り、また左に曲がって裏小路に入ります。
この辺りはかつて城下町の武家地でした。
右側にあるのが遷喬館。
岩槻藩の儒学者児玉南柯が創設した私塾で、後に藩校となりました。
南に向かうと見えてくるのは鈴木酒造。
鈴木酒造酒蔵資料館は店舗の2階。
1871年(明治4年)創業当初に使われていた貴重な酒造りの道具などが展示されています。
岩槻城の城下町として発展し、後に日光御成道の宿場町として栄えました。
歩道にはカラフルな「いわつき郷土かるた」のタイルがあります。
このかるたは1989年(平成元年)に旧岩槻市の市制35周年を記念して作られました。
城下町の歴史や人形の文化が感じられます。
中井銀行岩槻支店が1921年(大正10年)にレンガ造り2階建て店舗を建てました。
建物の裏側には旧金庫室が張り出しています。
1960年(昭和35年)からは人形の東玉の店舗として利用されてきました。
2007年に国の登録有形文化財に認定されました。
遷喬館は、1799年に、岩槻藩士の儒学者児玉南柯が武家地にある裏小路に創設した私塾であり、のちに藩校となりました。
儒学を中心に講義が行われ、藩士の子弟たちがここで学びました。
埼玉県内に現存する唯一の藩校です。
建物は武家屋敷を利用したものであり、木造平屋建て、茅葺屋根の構造です。
県指定史跡となっています。
かつては梅林を伴った広大な敷地に武芸稽古場、菅原道眞を祀った菅神廟などがありました。
2003年から2006年にかけて解体修理・復原工事が行われ、一般公開されています。
鈴木酒造酒蔵資料館は、1871年(明治4年)創業の日本酒の蔵元である鈴木酒造の直売店の2階にあります。
伝統の酒づくりを今に伝えるさまざまな歴史的資料・道具を展示しています。
かつて武家地であった裏小路にある裏小路公園。
入り口には人形が置かれ、人形の像のようなベンチや遊具もあり、人形のまちらしさが楽しめます!
大通りに出ると一里塚跡。
この通りは日光御成道、将軍が日光東照宮へ参詣した際に通行しました。
この一里塚は日本橋から9里目です。
そして、通りに面して岩槻人形博物館があります。
人形のまち岩槻に2020年に開館した人形をテーマとした日本初の公立博物館です。
伝統的な人形作りについて学んだり、コレクションの日本人形の展示を見たりできます。
美しく華やかな雛人形や子供の姿の品格高い御所人形など見応えがあります。
博物館に隣接する「にぎわい交流館いわつき」では、工芸品の手作り体験講座を開催。
地元産のヨーロッパ野菜を使ったメニューが楽しめるカフェもあります!
かつて城下町の武家地があった裏小路の一角にある公園。
全体的に和風の雰囲気です。
公園内には人形のまちらしく、人形彫刻作家 磊氏の人形が門や塀に置かれています。
また、可愛らしい人形がかたどられたベンチや遊具もあります。
公園の横には、岩槻城への敵の侵入を遅らせるため道路を意図的にずらした「食い違い道路」が現在も残っています。
日光御成道は、徳川将軍家が日光東照宮へ参詣した際に通行しました。
日本橋を起点に本郷で中山道と分かれ、岩槻を経て幸手で日光街道に合流する約12里の道のりです(一里は約4km)。
この一里塚は9番目で、一里塚跡には指標碑があり、横にエノキが植えられています。
一里塚は、かつて街道の両側に距離を表すため1里ごとに築かれた塚。
その上にエノキなどの木が植えられました。
岩槻人形博物館は、日本有数の人形の産地である岩槻に、2020年にオープンした人形をテーマとした日本初の公立博物館。
所蔵品は、日本画家で人形玩具研究家の西澤笛畝(1889〜1965)コレクションを柱としています。
その他のコレクションや寄贈品を合わせ、5,000点以上の人形とその関係資料が所蔵されています。
博物館に隣接して「にぎわい交流館いわつき」があります。
ヨロ研カフェでは地元の農家が栽培するヨーロッパ野菜中心のメニューを味わえます。
ショップでは、新鮮な野菜をはじめ、岩槻にゆかりの深い食品や地域の工芸品など魅力ある土産品を取り扱っています。
また人形を始めとした岩槻の伝統工芸品の手作り体験講座を実施しています。
岩槻人形博物館を見学したあとに立ち寄ってみてください!
岩槻人形博物館をあとにして、日光御成道を東へ進み右へ曲がって時の鐘に向かいます。
時の鐘は江戸時代岩槻城主が設置しました。
県内最古の時の鐘として、現在も1日3回、時を知らせ続けています。
また日光御成道を進み、今度は武州鉄道の小径を左に入り、浄安寺へ向かいます。
浄安寺には遷喬館を開設した児玉南柯のお墓があります。
岩槻小学校の横を通って愛宕神社へ。
岩槻城と城下町はその周囲を全長8kmにもおよぶ大構という土塁と堀に囲まれていました。
愛宕神社が鎮座する大構はここに唯一その名残を見ることができます。
時の鐘は、1671年(寛文11年)に岩槻藩主阿部正春が渋江口に設置し、城下町の人々に時を知らせました。
その後ひびが入り、音色が悪くなったため、1720年(享保20年)に藩主永井直棟により改鋳されました。
音色が素晴らしく、四里四方に響いたと伝えられています。
時の鐘は戦争中も守られ、かつては旧藩士が鐘を撞いていましたが、2001年に自動化され、現在も1日3回時を知らせ続けています。
県内最古の貴重な鐘。
時の鐘の隣の大きなイチョウの木は、1896年(明治29年)、岩槻藩主大岡忠光の法要の際、九条道孝公爵が記念に植樹したものです。
「岩槻に過ぎたるものが二つある児玉南柯と時の鐘」と岩槻の人々に親しまれてきた里謡があります。
この里謡を作曲した深井鑑一郎氏の書による石碑が大イチョウの木の横に建っています。
浄土宗のお寺で、快楽山微妙院浄安寺といい、本尊は阿弥陀如来像です。
もとは真言宗でしたが、1505年(永正2年)天誉上人により開山され、浄土宗に改めました。
山門は、別名「槍返しの門」と言われ、かつては城下町の出入口ありました。
言い伝えによると、8代将軍吉宗の日光参詣の際、行列が槍を先頭に門にさしかかったところ、門の屋根が低くやりを立てたまま通ることができず、岩槻藩主永井直棟に屋根を壊すように命じました。
しかし、直棟は「槍を返して(倒して)お通りください」と行って槍を倒して通らせたと伝えられています。
門はのちに浄安寺に移築されました。
境内には、遷喬館を開設した児玉南柯のお墓、江戸時代最初の岩槻城主・高力清長のお墓、徳川家康六男松平忠輝の子・徳松丸と側室・竹の局のお墓と供養塔があります。
大正時代に川口~岩槻~蓮田に開設された武州鉄道の蒸気機関車は浄安寺前を走っていました。
愛宕神社の祭神は加具土命であり、火防の神様として知られています。
岩槻城大構は、岩槻城とその城下町の周囲を土塁と堀で囲んだもので、全長8kmにも及びました。
戦国時代末期に、小田原北条氏が、豊臣政権との緊張が高まるなか築いたものとされています。
愛宕神社はこの大構の上に鎮座しています。
大構えは昭和30年代にかけて徐々に切り崩され、現在は唯一愛宕神社にその遺構を残しています。
2月中旬~3月中旬に開催される「人形のまち岩槻まちかど雛めぐり」の期間中、愛宕神社では大雛壇かざりが催され、石段に雛人形が飾られます!