北浦和駅の西口を出て、ロータリーから商店街を抜けると、大通りの向かい側に北浦和公園が見えてきます。色づき始めた園内の木々を通り抜けると、奥には埼玉県立近代美術館。外観からもアートを感じます。公園中央の大きな噴水の横を通ると、子供達が元気に遊びまわっています。奥の彫刻広場などでは点在するアート作品が楽しめます。一旦公園の北側の大通りに出て歩道橋の上から埼大通りのけやき並木を見渡します。
北浦和駅西口から徒歩2分。1974年(昭和49年)に開設された県営の公園。1969年(昭和44年)に移転した埼玉大学の跡地が公園として整備されました。音楽噴水では決まった時間になると音楽に合わせた噴水ショーが見られます。また、県立近代美術館、彫刻広場などもありアートが堪能できます。木々も多く、四季折々の風景が楽しめる地元住民の憩いの場となっています。南側は市営の浦和北公園と隣接しており、二つの公園が一体となって大きな公園を形成しています。
埼玉県立近代美術館は、The Museum of Modern Art, Saitamaの略MOMASの愛称で親しまれています。1982年に開館。モネ、シャガール、ピカソなどの海外の巨匠から日本の現代作家、埼玉ゆかりの美術家まで多くの優れた作品を収蔵。ユニークなテーマを設けた企画展を随時開催しています。また、館内にはたくさんのグッド・デザインの椅子が置いてあり、腰かけてゆっくりと鑑賞できるのも魅力。「椅子の美術館」としても知られています。グリッド(格子)を基調とした建物は造形的にもすぐれたものです。国立新美術館も設計した建築家・黒川紀章の設計による最初の美術館。
国内外の作家によるさまざまな素材の立体作品が展示されています。その中のひとつ、カラフルで人目を引くオブジェは山本信氏による「這うものたちの午後の眠り」。子どもたちに人気の遊び場となっています。
国道463号線のさいたま市西部を走る区間は、沿線に埼玉大学があることから、「埼大通り」と呼ばれています。埼大通りのけやき並木は、その街路に2,400本ほど植えられた埼玉県の木であるケヤキの並木です。「日本一長いけやき並木」として親しまれています。
もう一度北浦和公園に入り、園内を東に進みます。
この辺りは1921年(⼤正10年)から旧制浦和高等学校があり、1949年(昭和24年)に埼玉大学文理学部となりました。そして、1969年(昭和44年)には埼玉大学が現在の大久保地区へ移転しました。
跡地の公園には旧制浦和高等学校の正門が現存し、歴史を感じます。公園を出て、隣接する浦和北公園に入ります。日本庭園では水の音が響き、木々の紅葉がきれいに池に映っています。浦和北公園でも旧制浦和高等学校に所縁のある学生像があり、当時の姿を伝えています。公園を出て南に向かい、常盤緑道を歩きます。
北浦和公園はかつて埼玉大学の前身である旧制浦和高等学校がありました。その跡地である公園の東側には正門が当時の位置のまま残されています。各地から勉学に励む学生が集まり、浦和は文教のまちとして名を広めました。
北浦和公園の南側に隣接する市営の公園。1969年(昭和44年)に移転した埼玉大学の跡地が公園として整備されました。園内には四季折々の景観が楽しめる日本庭園がある他、テニスコート、ゲートボール場、談話室などがあります。かつて埼玉大学の前身である旧制浦和高等学校もあったため、園内には、旧制浦和高等学校に所縁のある学生像とカイノキがあります。
浦和北公園はかつて旧制浦和高等学校があったため、園内には所縁のものが残っています。
学生像は高ゲタ黒マント姿の生徒がモデルとなっており、当時の面影が偲ばれます。1972年に同窓生により建立されました。
学生像の横のカイノキは、1925年(大正14年)に旧制浦和高等学校の漢文科の教授が中国・曲阜の孔子廟から種子を持ち帰り、大切に育てたものといわれています。日本ではあまり見られない珍しい木です。市の天然記念物に指定されています。
かつては常盤に源を発し、別所沼から南区へ水路が流れていて、清ヶ谷と呼ばれていました。現在は暗渠となり、四季折々の草花が植えられていて、住宅街の長閑な散策路として親しまれています。
大通りを西へ進み、途中常盤緑道を歩きます。再び大通りを西へ進み左に曲がると、高沼用水路(東縁)沿いを散策できます。この用水路はかつて農業用に造られましたが、今では市街地に残る貴重な水辺空間に。ウォーキングにおすすめです。また西に向かい、埼京線の高架下をくぐり北に向かうと、街なかとは思えないほど自然がいっぱいの河童の森があります。公園の奥に入ると小さな河童の像がお出迎え。偶然、白鷺にも出会いました!また高架沿いを北へしばらく進むと南与野駅、今回はもう少し足をのばして樹齢1000年と伝わる与野の大カヤへ。国の天然記念物に指定されています。この大木を見上げ、歴史とパワーを感じます!
この辺りにはかつて 鴻沼と呼ばれる細長い沼がありました。江戸時代の中頃、見沼の干拓も行った井沢弥惣兵衛為永が八代将軍徳川吉宗の命を受けて鴻沼の干拓を行いました。農業用に見沼代用水西縁から水を取り高沼用水路を造りました。この「高沼用水路」は「見沼代用水」のミニチュア版と言われています。「こうぬま」に「鴻沼」と「高沼」の両方の表記があるのは、読み書きに差のあった江戸時代に「鴻」という字は難しいので簡単な字を使うようになったからだそうです。
280年間農業用水としての役割を担った後は、歴史ある水路の形態を活かしつつ自然景観に配慮して整備が行われ、現在は市街地に残る貴重な水辺空間として親しまれています。
かつてこの辺りにあった鴻沼は細長い沼で、農業用のため池として利用されていました。江戸時代の中頃、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって進められた鴻沼の干拓の際、鴻沼の中央に排水路を掘ってできた川です。高沼用水路の西縁と東縁の中央を流れています。
江戸時代に作られた高沼用水路西縁沿いに、「こうぬま・水と緑を楽しむ会」を筆頭に行政や企業が協働で作った自然空間。この土地にあった在来種の植物を植え、明るい里山づくりを進めています。この辺りの用水路はコンクリートで固められず、土の堤防のまま残っています。南与野駅の近くにありながら、野鳥、水辺の生き物、昆虫などに出会える公園です。公園内では小さな河童の像も!
与野の大カヤは、金毘羅天堂の境内にそびえ立つ「かや」の木です。樹高約21.5m、目通り周囲約7.28m。樹齢約1000年と伝わり、室町時代のころから関東随一の巨木として、その名が広く知られていました。国の天然記念物に指定されています。また、金毘羅天堂には、金毘羅天立像が安置されており、毎年2月10日にはダルマ市が開かれます。